みなさんは、貝原良治さんをご存知でしょうか?
カイハラデニムを作っているメーカーの会長と言えば、
ピンとくる人もいるかもしれませんね。
そこで、今回は、貝原良治さんについて
・貝原良治の経歴
・貝原良治の年収
・貝原良治の出身地
・貝原良治の学歴
・カイハラデニムについて
を調査していきます!
また、この記事の後半では
カイハラ産業についての動画を掲載しております!
ぜひ、合わせてチェックしてみてください!
貝原良治の経歴
貝原良治(よしはる)さんは、デニム生地メーカー「カイハラ産業」の会長です。
カイハラ産業については、「カイハラデニムについて」の項目で詳しく説明しますね。
貝原良治さんが生まれたのは、1943年。
1965年に大学を卒業し、繊維商社「八木商店」に勤務します。
大阪に本社を置く老舗の繊維商社で、現在の株式会社ヤギです。
1970年にカイハラ産業に入社します。
1990年、47歳のときに4代目社長に就任。
2003年に会長となります。
カイハラ産業は貝原良治さんのおじいさんが創業した会社で、
大学生時代は長期休暇中に家業を手伝っていたそうですよ。
広島県織物構造改善工業組合理事長などを務めながら、
日本の繊維産業の発展に尽力し、2013年に旭日小綬賞を受賞しました。
貝原良治の年収はいくら?
貝原良治さんの年収についての情報はありませんでした。
繊維工業の平均年収は、351.2万円と言われています。
役員報酬は従業員の3倍が目安なので、900万ぐらいだと考えられるでしょう。
しかし、カイハラ産業の取引先は大手が多いので、
もっと稼いでいる可能性は十分にありますよね。
もしかしたら、数千万はあるかもしれません。
貝原良治の出身地はどこ?
貝原良治さんの出身地は、広島県福山市です。
大学に行くまでずっと、地元で過ごされていたそうですよ。
広島県福山市は、広島県の東部に位置する市です。
粗鋼生産量が日本一の都市で、重工業が盛んな都市として知られています。
福山市出身の著名人は、
- 第78代内閣総理大臣 宮澤喜一
- 三菱自動車工業初代社長 佐藤勇二
- 京野ことみ
- 世良公則
など。
福山市はロケ地として使われることも多く、
大河ドラマ「龍馬伝」などの撮影で使われていました。
宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」の舞台も福山市なんですよ。
貝原良治の学歴は?
貝原良治さんの学歴について調べたんですが、
成城大学を卒業したことしか分かりませんでした。
大学では、経済学を学んでいたそうです。
大学に入学するまでは地元にいたということなので、
高校や中学は地元の学校だと思われます。
成城大学は、東京都世田谷区にある私立大学です。
小学校からあり、有名人の子供が通っているイメージが強いですよね。
カイハラデニムについて
カイハラ産業が手掛けるデニム生地、通称カイハラデニム。
国内シェア率は50%で、デニム生地の生産量は日本一です。
カイハラデニムは質が良く、ユニクロやリーバイス、ギャップなどのブランドにも
供給しているんですよ。
ユニクロで売られているジーンズの8割がカイハラデニムです。
すごいですよね。
カイハラデニムの取り扱い店
カイハラ産業は、自社でジーンズの製造も行っています。
茶綿デニムと呼ばれる、茶綿を使ったジーンズなどを作っているんですよ。
普通は白い綿を使って作るんですが、
茶綿デニムでは茶色い綿が使われています。
昔のジーンズでは茶綿が主流で、白綿と比べると色に深みが出るのが特徴です。
通販サイト
実店舗
実店舗でカイハラデニムを取り扱っているのは、
藤巻百貨店銀座店だけです。
- 住所 東京都中央区銀座5‐2‐1東急プラザ銀座6階
- 営業時間 11:00~21:00
カイハラ産業の歩み
国内トップを誇るカイハラ産業ですが、
その歩みは決して順風満帆とは言えませんでした。
何度も経営難に陥り、その度に、新しい道を模索。
紆余曲折を得て、今日のカイハラ産業が生まれたんです。
では、カイハラ産業はどんな道を歩んできたんでしょうか?
カイハラ産業の創業
カイハラ産業が創業したのは、1893年。
貝原良治さんのおじいさん、貝原助治郎さんが始めました。
当時は絣を扱う繊維会社で、
10年で社員30人、年間5000反の絣を製造するまでに成長。
その頃、カイハラ産業がある福山市は備後絣の産地として栄えていました。
備後絣
広島県福山市新市~福山市芦田町で製造されている絣。
日本三大絣(伊予絣・久留米絣)の1つで、綿で織られている。
藍染、柿渋染、墨染などがある。
最初の経営難
1920年、助治郎さんの息子、覚さんが事業を引き継ぎます。
(たぶん、貝原良治さんのお父さんだとは思いますが、情報がないので詳しくは分かりません。)
しかし、順調だったカイハラ産業に暗雲が立ち込めるんです。
1941年に起きた太平洋戦争によって糸の配給が止まり、経営難に陥ります。
ハンコック帽などの生産に切り換え、何とか乗り切りました。
3代目を引き継いだ定治は、
1956年に洋服用広幅絣の製造に成功します。
定治さんは、貝原良治さんの義兄。
終戦と共に絣の需要が落ち込んでいたので、
新たな活路を見出したんです。
反物は幅が狭いので洋服を作るのには不向きなので、
洋服を作れるように幅を広くしたんですよ。
2度目の経営難
海外へ輸出するなど、順調に回復していたのに、
また、危機に直面します。
1967年、主要輸出先であった中東の都市からイギリス軍が撤退したんです。
そのため、ポンドの価値が急落。
カイハラ産業はサロンと呼ばれる衣料の輸出をしていたんですが、
輸出量が減って、収益も落ち込みます。
そんなとき、デニム生地を作ってほしいと依頼を受けるんです。
ベトナム戦争に対する反戦運動の盛り上がりで、
平和の象徴として多くの若者がジーンズを履くようになっていました。
カイハラ産業がデニム生地メーカーとして歩み出したのは、
この時なんです。
デニム生地メーカーのトップとして
絣とデニムは、糸を染めるときに藍を使う点は同じでした。
でも、絣の糸と同じように、糸の芯まで染めてしまうと
デニム特有の色落ちが生まれません。
アメリカで糸を染めるときに束にして染めることを知った定治さんは、
日本初のロープ染色機を作り上げます。
「液中絞り」という独自の技術を開発中で、その技術を応用して作ったんだとか。
生地メーカーや紡績会社からの依頼が殺到し、
1973年にはリーバイス社からオーダーを受けます。
そして、世界から注目を集めるデニム生地メーカーとなったんです。
織布、整理加工、紡績などの設備を完成させ、
デニム生地の製造すべてを手掛ける国内初の一貫生産体制も確立させます。
すべての工程を一緒にすることで、良質なデニム生地を作ることを可能にしたんです。
カイハラ産業についてもっと詳しく知りたい方は、
公式サイト(こちらをクリック)をご覧ください。

まとめ
さて、ここまで貝原良治さんについて
・貝原良治の経歴
・貝原良治の年収
・貝原良治の出身地
・貝原良治の学歴
・カイハラデニムについて
を調査してきました!
いかがでしたでしょうか?
日本だけでなく、世界でも活躍を続けるカイハラ産業。
これからも、日本の企業として頑張っていって欲しいですね。
メイドインジャパンの凄さをぜひ、いろんな世界の人に感じて欲しいと思います。
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